ふとスマホを開けば、地球の反対側で起きた悲劇や、顔も知らない誰かのスキャンダルが、否応なしに目に飛び込んでくる。そんな毎日が当たり前になっています。
一説によると、現代人が1日で受け取る情報量は、江戸時代の人の1年分、平安時代の人にいたっては「一生分」に相当すると言われています。
私たちは今、人類がかつて経験したことのない情報の濁流の中にいます。「常に何かを知っていなければならない」という強迫観念に追い立てられ、心が少しずつ削り取られてはいないでしょうか。
そんなとき、ふと思い出す言葉があります。
「蝉は夏を知らない」
この言葉を聞いたことがあるでしょうか。
「蝉は夏を知らない」は、中国の古典『荘子』に由来する言葉で、原本では
「蟪蛄(けいこ)は春秋を知らず」
と記されています。
夏に生まれて夏の間に死ぬ蝉は、春や秋、冬を知ることができません。
そのため、自身が生きる季節が「夏」であることすら、彼らは知りません。
季節は相対的に、ほかの季節と比べることでしか判断できないからです。
私たちは「平安時代の人の一生分」を1日で生きている
現代に生きる私たちは、人類未曾有の情報化社会に生きています。一説では、現代人が1日で処理する情報は、江戸時代の人が一生かけて受け取る量に匹敵するとも言われています。
私たちは、人類未曽有の情報化社会に生きています。一説では、現代人が1日で処理する情報は、江戸時代の人が1年かけて、平安時代の人が一生をかけて、受け取る量に匹敵するとも言われています。
このような時代において、一個人が、全ての情報を精査し、理解し、活用することはほぼ不可能です。
蝉は、夏を知ることができません。でも、それでいいのだと私は思うのです。夏の僅かな間しか生きることのできない蝉が、春や秋の知識を得たとしても、それが蝉の生に生かされることはありません。四季を客観的に認識し、夏を相対化することは、彼らにとって全くの無意味だからです。
「地球の裏側」よりも「半径5メートル」の真実
それは、私たちの社会でも同じではないでしょうか。
知る必要のない経済動向、腐敗する政治、よくならない社会。これら膨大な情報の多くは、私たちの日常を直接豊かにしてくれるものではありません。地球の裏側で起きた惨事が、私たちの本質的な生活を変えることは滅多にありません。せいぜい、小麦の値段が上がる、とかです。
遠い国の悲劇を慮る心は美しいものです。しかし、その優しさゆえに、自分ではどうにもできない事象に心を痛め、疲弊してしまうのはあまりに切ないことです。
私たちの人生は有限です。
他国のニュースや芸能人の不倫問題に一喜一憂するよりも、大切な人と過ごし、趣味に没頭する。そちらの方が、はるかに有意義な時間の使い方ではないでしょうか。
「今、ここ」の熱量こそが真実
結局のところ、私たちが本当に向き合うべきは「世界」ではなく、**「自分の手の届く範囲」**ではないでしょうか。
SNSで届かない怒りをぶつけるよりも、隣で落ち込んでいる友人の肩を叩き、夕飯の献立を少しだけ豪華にする。その方が、よほど人生を「生きたもの」にしてくれます。
蝉は、自分が生きている季節が「夏」と呼ばれていることすら知りません。 けれど、彼らの鳴き声には一点の迷いもありません。彼らにとっての真実は、今、自分がしがみついている樹皮の感触と、震わせる羽の熱量だけだからです。
・知らないことは、罪ではない。
・「知らなくてもいいこと」を捨てることで、自分の人生が始まる。
情報化社会という巨大なシステムに振り回される必要はありません。 私たちはもっと、自分の半径5メートル以内の景色に集中してもいい。 知らないことは、罪ではありません。 むしろ、「知らなくてもいいこと」を捨て去ることで、初めて自分の人生に集中できるのです。
もしあなたが情報の濁流に疲れてしまったのなら、一度すべてをシャットアウトしてみてください。そして、目の前にある「今」を、蝉のようにがむしゃらに生きてみてください。
世界を識ることは賢明かもしれません。 けれど、世界を知らずに「自分の人生」を全うすること。 それこそが、現代における最高に贅沢な生き方なのだと、私は思うのです。
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